人生の頽齢期を迎えて、いくら長命の時代とは言え、神がいるなら、お目にかかる日はそう遠くないだろうと覚悟している今、市井に棲む草莽の募銘碑として記す。
古代史論考
近視眼的な教科書騒ぎ
古事記・日本書紀の考察
日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、
つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、呼ばれていたのである。
ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、
それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。
なにしろ隠忍(鬼)とされていた日本原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。
つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、
梶原源太を下手人だとして犯人に仕立てて殺し、次々と和田、三浦と源氏の主だった連中を処分してのけた。
そして彼らの郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年(1180)の年号は石橋山で敗れた頼朝を、
政子が平氏の本関地千葉へ逃した年にあたる。「頼朝御判二十四種」は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。
さて、今日の新聞社が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十二年迄は、反体制色が強く、新聞は薩長政府を糾弾する急先鋒だった。
それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、
古代史に出てくる権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。
なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒して、唐の勢力が九州より御所入りし、日本名を「藤原鎌足」と名乗った郭将軍が、
則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、
イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。
ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、韓国に「むちゃくちゃな出鱈目歴史ではないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、
この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築させられている。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、
御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。
なのに日本では文部省が金田城を国の重要文化財に指定している。全く馬鹿げている。
昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付けし、
一人で九人くらいに孕ませて廻ったからして、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。
わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従していた歴史的事実も隠されている。
日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。
その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、
奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。
「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と韓国の解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、
彼らの先祖のナラ王朝だったのである。
馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。
現在韓国は「国際約束は守らない」「軍事条約は破棄する」「歴史は都合よく改竄する」などやりたい放題である。
おまけに、欲しくて堪らないくせに、日本製品の不買だとか旅行の禁止と下劣な嫌がらせに明け暮れている。
散々日本に世話になっているくせに、悪辣極まりない。こんな国は以後暫くは放置しておくに限る。
考えてみれば韓国も北朝鮮も可哀そうな国である。2000年に及ぶ悲惨な中国への属国史の中で、国民の遺伝子の中に刷り込まれた卑屈と屈折がどす黒く沈殿している。
だから同盟国のアメリカにも、散々世話になった日本にも無茶をするのである。こうした歴史的淵源から韓国も北朝鮮も見なければ解けない問題である。
さて一方、中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、在りもしなかった、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける青森の奇祭、根蓋(ねぶた)までやってくれている。
しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取っ組んでいないものだから、日本の歴史学者は俗儒だから、
三流学者の悲しさで、哀れ何も言い返しが出来ないのである。
古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議や韓国の政策に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。
といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。
それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。以前、家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、
せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まことに馬鹿々々しい極み。
かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、
金大中の御先祖さまの百済系が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、
現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていたのが実態なのである。
新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきてこの日本列島で勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。
恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン文字の日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。
韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷をよばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、
京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。
それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。
なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえせめても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。
もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、
せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。
無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン(桃源=藤原)王朝史だと判らぬのか知らぬのか、
何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」と
いう事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。
「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。
長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、
「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」
と、後にベルリン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、
「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国してしまった。
だから歴史の専門家が一人も認められていないゆえ、まぁ古代史は無理といってしまえばそれまでの話だが、もし良心があるなら各大学で歴史担任の教授は丸坊主にでもなるべきだろう。
なにしろ日本以外の国では、歴史を愛国心を育てるために重点的に教える。大学入試でも、歴史は必須科目として必ず受けさせられる。しかし日本ではディスカッションし、
学生たちに研究討議させる重要科目ではなく、中学生の頃から文字通り教科書を暗記させ、年号を覚えさせるだけであって、大学の入学試験にも歴史を必須受験科目にするようなところは全然ないのである。
なにしろ各時代の権力者によって、日本歴史は都合よく美化され創作されているにすぎないのは、各会社が自費出版して得意先や関係会社へ配付している社長伝や社史と同じことである。
それゆえ歴史を受けもち講義する者は、恩師に対し弟子として領分からはみ出さぬようにのみを心がけて、昇任昇給だけを望み、隠れたベストセラーともいえる文部省検定歴史教科書をだせるようになって、
莫大な印税を得られるようになりたいとの願望だけのみであるらしい。
それゆえ、騎馬民族は日本海を渡ってきて裏日本へ入ってきた潮流学を無視して、日本書紀に合せ鴨緑江をわたってクダラ人みたいな騎馬民族とし、体制に合わせ江上教授も発表した。
大伴家持が飼戸の「四つ」の奴隷頭ゆえ、いくら働いても認められず癪にさわって飛び込み憤死したのを、日本書紀に辻つまを合わせてた梅原教授も、今では学長にまで昇任した。
みなお利口さんは御用歴史作家であるが、彼らとて歴史の講義をする教授ではなく、他科目の教授である。
というのは、いくら体制べったりにそっての、事なかれであっても、歴史畑であれば、恩師が言っていないことを発表するには、立場が拘束されていて、絶対に不可能のせいだろう。
つまり監督官庁の文部省の指導方針にそい、恩師の口ききがなくては立身出世の途がひらけぬからである。他の考古学畑にしても、やはり親方は文部省で、
宮内庁の権威が影についているから、少しでも日本書紀からハミ出しては、枠内からの落ちこぼれとみなされてしまう。
世界最大の墳墓といわれる仁徳陵の発掘を、絶対に宮内庁が不許可にしているのも、日本書紀に記載されているのとは、どうも違う結果がはっきりしていて、
はたして仁徳陵といっても、どなたが埋められているか判らぬといった危惧があるせいらしい。
なにしろ学校歴史では、
「民のかまどは賑わいにけり」と高屋から望みみられたもうた御情け深い御方となっている。
しかし、民のかまどから炊煙が絶えるくらいに搾取され、暴動を怖れて淡路島へ待避しておられたのが、浪花へ戻られ、また高所から民の有様をご覧になり、
そうおっしゃられたというのは、恐らくまた戻ってきて、これなら課役が増やせて良いと、のたもうたのではあるまいか。
広大な仁徳陵と称せられるような大規模なものになると、ブルドーザーもなかった昔ゆえ、何千どころか数万の奴隷が鞭打たれつ何年も働かされて構築されたものゆえ、
古代史の中では、奴隷社会の始まりといえよう。もちろん同国人を奴隷にしてまで、ひどく酷使できる筈はない。
となると、鉄製武器をもって渡来された方が、原住民である日本縄文人を捕え働かせたものとみるが至当で、珍、讃などと中国からよばれた五王の四世紀初頭の捕虜課役大工事だったろう。
産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。
現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、
素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。
私にしても「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかとなんとかして打破しようとして取り組ん
できてしまった‥‥
初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」するのも、光秀のライバルだった秀吉、本
当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、
面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。
美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、
「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。
紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。
江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。
プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約束手形をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、
「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、
約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、
ただ意想天外とされたにすぎぬ。
しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、
「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、
とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。
美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。
となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。
江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、
寺奴で、仏教側のガードマンだったのが本当。
とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、
それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。
何故に歴史を知りたがるか
「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。
若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。
そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、
子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。
それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。
もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃる。
まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。
「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。
「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、
故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。
だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、
生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、
処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがあったほどである。
「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。
中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女子中学生の沖田総司讃美、そして次は、
「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。
ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。
「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。
「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、
それぞれ戦場で生死を倶にする者らが縦に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。
「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。
赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。
だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。
まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。
岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認していた。
しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。
京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、
急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけている。
だが失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断で首が落ちた。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。
吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので
吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すにのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。
それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。
当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」
と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。
それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、悪い冗談か。
全く、江戸時代その侭なのが今の学校歴史なのである。
つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、
華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭なのが現状。
明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。
日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、
自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、
「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版されている。
書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。
日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、
詳しく後述するけれど、西での発見されたならば、これは第三次勧学院のものであってトウ(唐)製なのである。
第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、
足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。
その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。
「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、
今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、
白頭山ある羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。
崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。
藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。
今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、
先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。
歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、
かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。
昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。
しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。
西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。
それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。
七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、
水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、
老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、
「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。
それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、
二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、
戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。
が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと
「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。
後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。
つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。
のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、文久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。
そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのである。
つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。
つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、
前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八つぁんの部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、
目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていたのが実態。
領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。
私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、
「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに教えてくれた。
なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。
しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。
江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。
相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、
反目しあう日本原住民どうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。
幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。
貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。
両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めない子は庶子という。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。
布衣草莽
このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。
だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。
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