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  • 明智光秀は理想主義者 光秀の歌から探る「本能寺の変」
          明智光秀は理想主義者  光秀の歌から探る「本能寺の変」「見花」と題されて、「咲きつづく花の梢をながむれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」という短歌がある。これは、旧候爵蜂須賀家に伝わっているもので、明智光秀の署名があり、明智光秀の真筆として名高いものである。が、これと同じものが明智光秀が迷って出て祟りをせぬようにと、祀られている福知山の御霊社にも余り保存はよくないがある。つまり光秀には...
  • 源実朝と金塊集の考察  
                                 源頼朝     源実朝    藤原定家  北条政子       源実朝と金槐集の考察    頼朝の子として生まれながら、悲しくも哀れな生涯の実朝      北条政子によって源氏の正統は根絶やしにされた現在ウイキペディア等ではこ...
  • 徳政令から見える日本史の真実 戦国武将の発生
    徳政令から見える日本史の真実戦国武将の発生 日本史には西暦1504年の永正元年十月に「徳政条目」が発布されたとある。それから次々とこの法律は発布されている。歴史屋共は、この徳政を民百姓の借金を延ばさせるた為のモラトリアムの仁徳を施した政治としている。そして歴史教科書には「徳政一揆を起こして、民はこぞつて発布を求めた」と出ている。しかしこれは大変な間違いである。 現在も、徳政の文字と発布の年月日が刻まれ...
  • 真説上杉謙信物語
      真説上杉謙信物語戦国時代越後には、磯部には上田長尾、古志郡栖吉の長尾、鍛冶で名高い三条の三条長尾が居た。そして栖吉の長尾於虎御前と三条の長尾為景の間に五人の子が居て、 長男  長尾晴景 二男  長尾景房 三男  長尾景康 長女  長尾阿亀 次女  長尾阿虎  となっていた。この中の次女である長尾阿虎が、後の上杉謙信となる。ここでは呼称を「長尾阿虎」として進める。さて、正確な名前は、前記したように長...
  • 寛永御前試合はなかった 文武両道の嘘
    寛永御前試合はなかった文武両道の嘘    現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、 武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。逆に治安維持上、これらは取り締まって禁...
  • 五木寛之が書いたサンカ物語
     「五木寛之が書いたサンカ物語」       第一部   サンカの歴史はアイヌのユーカラのように、口伝えで伝承されている。 彼らは絶対に文字では残さない民族なのである。 昭和になって作家の五木寛之が「小説新潮」に三回連載したのが「風の王国」の一冊として刊行された。これは1985年のことである。 「先ず申し上げておこう。吾々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして...
  • 現代ヤクザの考察 ヤクザの発生史
    2   現代ヤクザの考察先頃、数々の抗争事件を繰り返してきた山口組が分裂した。 週刊誌は何時ものように内情分析の記事がかまびすしい。 山口組専門ウオッチャーも様々に分析しているが、沈黙は金なりとばかり内部からの信頼できる情報は全く出てこない。これは五代目の出身組織である健竜会の教訓「団結・報復・沈黙」を体現しているのだろう。 こうした状況下での以下の本は興味深い。「鎮魂」元山口組盛力会会長。 心な...
  • 家康に騙された福島正則。数奇な流転をした”明智光秀遺愛の朱槍”について
           家康に騙された福島正則。  ■数奇な流転をした”明智光秀遺愛の朱槍”について。    福島正則は関ヶ原合戦では東軍(家康)について戦ってますから、当然家来の可児才蔵も朱槍を持って活躍しています。問題は秀吉の親戚にも当たる正則が何故家康に付いた かですが、ここを考えて見ましょう。 (少し長くなりますが”槍”と関係あるので) 福島正則の父親は市兵衛と謂い、ささら者の桶屋だ...
  • 水戸天狗党の由来
    水戸天狗党の由来  水戸斉昭は徳川慶喜の実父であるが、朝廷から勅を貰い江戸に取って代わって水戸幕府を開こうとしたが、雄図虚しく死去する。 だが家臣たちは死後もその意思を継いで、江戸に取って換え世直しをしようとしていた。その過激派に付けられた名称が天狗党なのである。 しかし何故天狗党の名が付けられたのかは明らかにされては居ない。その訳は、当時の有名人だった藤田東湖の遺児で、藤田小四郎を頭に立...
  • 考証赤穂事件
           考証赤穂事件  江戸は京の真似をし町木戸を作り番人をおき、日没から夜明けまでは鼠しか通れぬようになっていた。 本所の紀伊国屋紀文佐衛門所有の材木小屋に勢揃いした赤穂浪士たちは、吉良邸までの間は町木戸は二しかなかった。だから、或いは小舟にのっていったかも知れぬが、引きあげの芝高輸泉岳寺までは、元禄版江戸切絵図には町木戸は43倒所もある。 労働組合もなかった当時、こんな43か所の番太郎がすべて...

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布衣草莽

このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。
だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。