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  • 古代シャモロ国地図による日本人ルーツ これからの中国との関係 二階幹事長の無様な姿 中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本
    古代シャモロ国地図による日本人ルーツ中近東→インド→マレーシア→ベトナム→日本これからの中国との関係二階幹事長の無様な姿 タイのバンコック博物館には、秘蔵古代シャモロ国地図がある。それによると、現在でこそメコン川上流のケンカン市の先で、雲南の車里となっており、ソンコイ川のラオカイの上流の川口から、江河と名が変わって、そこはベトナムの国境になっている。そこからインドシナ山脈を境にして四川省までが雲南...
  • 足利時代に見る日本と中国の深い関係 禅問答とは 茶博打で女を賭ける 足利尊氏を助けた謎の集団
    足利時代に見る日本と中国の深い関係禅問答とは茶博打で女を賭ける足利尊氏を助けた謎の集団 平安時代が終わり、鎌倉時代の源平の後の室町時代とよばれる足利期ほど近世で中国と交流の多かった時期はなかろうと想う。 当時、安徽省からたった朱元璋が燕京を落し、蒙古族を滅して新たに明国をたてた。 そして半島では高麗の恭順王を倒した李成桂が、都を漢陽(京城)に移し明の封冊をうけ、国号を朝鮮とした。だから、これ...
  • 秋田美人は白系ロシア(韃靼系) パンダに熱狂するわけ 日本とアラブのつながり
    秋田美人は白系ロシア(韃靼系)パンダに熱狂するわけ日本とアラブのつながり 白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年...
  • 豊臣秀吉の直参衆 赤母衣武者
    豊臣秀吉の直参衆赤母衣武者 豊臣秀吉の子飼いとも、恩顧とも謂われる大名に、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、浅野幸長、山内一豊、小西行長らは有名である。しかし秀吉の死後、徳川家康に寝返ったり日和見した大名も多い。そして最後まで、豊家に忠義を尽くし、秀頼、淀君を守り、信義に殉じた、石田三成や蒲生氏郷らも有名である。しかし大名にはなれず、秀吉直参の旗本で、馬廻りの武士達も、歴史の表舞台には登場しない...
  • 五木寛之が書いたサンカ物語 「風の王国」
    五木寛之が書いたサンカ物語 「風の王国」 サンカの歴史はアイヌのユーカラのように、口伝えで伝承されている。 彼らは絶対に文字では残さない民族なのである。 昭和になって作家の五木寛之が「小説新潮」に三回連載したのが「風の王国」の一冊として刊行された。これは1985年のことである。 「先ず申し上げておこう。吾々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきた。(中略)しかし心...
  • 日本茶にまつわる考証 茶博打の発祥 茶道、茶の湯、茶博打、茶筅 裏千家の大恩人吉良上野介
    日本茶にまつわる考証茶博打の発祥茶道、茶の湯、茶博打、茶筅裏千家の大恩人吉良上野介現在、コーヒーや紅茶は言わないが、日本茶を出す時には「カラ茶ですけど・・・・」という事がある。田舎では「お茶うけ」として漬物を出すところもあるが、今では、お茶菓なしの意味だが、本来は唐茶(からちゃ)のことで即ち唐から輸入の外来茶の意味。最澄が唐より持参したお茶で昔は煎じて飲む薬だったのが、三百五十年後に栄西が日本でも栽...
  • 片桐且元 豊臣を裏ぎった武将の第一級戦犯
    片桐且元 豊臣を裏ぎった武将の第一級戦犯 NHK真田丸では佳境に入ってきた時期に、片桐且元も登場して来た。 片桐且元は・史実にのっとって豊臣家に尽くし最後は敵になった悲運の武将 として描かれている。しかしこれは史実でもないし、明治時代の芝居その儘で、実像とは全く違い嘘である。豊臣家臣団の中で裏切ったり、日和見した武将は数多く居る中で、この男ほど悪質で酷い仕打ちをした者は他に居ない。 実力が無く、したが...
  • 千利休は誤り、本当は千宗易が正しい 茶の湯は死の儀式
       千宗易   茶の湯は死の儀式   【千利休】 千利休は誤り、本当は千宗易が正しい  千利休(1522~1591)父与兵衛亡き後19歳に与四郎の名から千宗易と改名。家業の乾魚問屋をつぎ、25歳の時長男道安をもうけ、後同年生まれの少庵を連れ子にした宗恩と再婚。天正19年に大陸遠征の後顧の憂いをなくすため山上宗二につぎ、家元の彼も秀吉に殺され、妻宗恩も石田三成...
  • 真説 織田源五郎長益(有楽)
      真説   織田源五郎長益(有楽)NHK真田丸で、織田有楽は陰湿で軽薄、猜疑心の強い茶坊主として描かれている。そして、牢人達を疑い、真田幸村と戦術面で対立する。だが実際の彼は、淀君や秀頼の相談役ではないし、ましてや軟弱な穏健派でも平和主義者でもない。 源五郎と呼ばれていた十四、五歳の頃から、兄信長の名代として、各地に転戦を重ねていた、武将としても一流であった事を見落としている。だから、これら...
  • 大江戸四方山話 身振り手振りの意味
        大江戸四方山話                                 【日本史辞典】                 手ぶり 現代、この言葉は「大袈裟な身振り手振りで話す」等と使われている。だが江戸時代は「棒てぶり」の名前で、江戸日本橋に在ったアマダナと呼ばれ繁盛していた商...

プロフィール

布衣草莽

このブログの全ての記事は、俗説、通説とは大きく違う。だからこれを「信じられぬ歴史」とし、俗説、通説を天壌無窮のものとするのは自由である。
しかし、調べられる限りの史料、資料を読み解き、出典文献、確定史料は全てあげているばかりでなく、原文その儘を誤解のないよう引用している箇所もある。
だから、もし意外性に驚かれても、疑問をもたれる向きは、どれでも抜き取りで参考資料とつき合わせて確かめて頂きたい。
つまり、これは本当は意外史でも何でもなく、此方のほうこそ正しい真実を徹底的に調べ上げているのである。どうか安心して読んで頂きい。